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會津戊辰偉人道7

以前、会津若松商工会議所青年部様からの依頼で、戊辰偉人道7と称し、提携するデザイン事務所との共作によりキャラクターのデザインをさせていただいた経緯があります。

ダブデザインではこういった企画段階からのご相談ももちろん承っております。
何なりとお気軽にお申し付けください。


■松江豊寿
16歳で陸軍幼年学校に入学した豊寿は、軍人としての道を歩み、
大正6年(1917)44歳の時、この収容所の所長となります。
豊寿は「ドイツ兵も祖国のために戦ったのだから」と敬意を表し、「武士の情け」を
口癖にし、俘虜を信頼した自主性を尊重する寛容な態度を貫きました。


■瓜生岩子
瓜生岩子は、江戸時代後期の文政12年(1829)、耶麻郡熱塩村(現在の熱塩加納村)に油商であった父、渡邊利左衛門と母りゑの長女として生まれました。
子どもたちが一人前になると、岩子は社会児童福祉に力を入れていきます。
戊辰戦争では、敵味方の区別なく負傷兵を看護し、避難民の救援に尽くしました。
明治になると、喜多方に幼学校を設立し、読み書きそろばんなどを教えました。


■ 山川健次郎
山上健次郎は、安政元年(1854)若松城下本二之丁(現東栄町)に、会津藩士山川尚江(なおえ)の三男として生まれました。
9歳から藩校日新館に学び、15歳のとき、藩の軍制改革により白虎隊に編入されますが、若年のため一旦除隊しています。


■新島八重
新島八重は、弘化2年(1845)に米代四ノ丁(今の米代二丁目)で、 砲術指南の山本権八(ごんぱち)の三女として生まれました。
慶応4年、板垣退助が指揮する西軍が城下に攻め入った時、24歳の八重は、 砲撃の指揮を取ったりしました。降伏・開城の時には、城壁に「明日の夜は何国の誰かながむらん、なれし御城に残す月影」という歌を刻み付けて退去するなど、忠君愛国の精神を持った人でした。


■西郷頼母
33歳で会津藩家老職に就任し、田中土佐と共に、会津藩主松平容保に京都守護職辞退を進言しました。
戊辰戦争では和議恭順を唱え抗戦派に命を狙われ城下を脱出します。
のち箱館戦争に参加し、降伏後は館林藩に幽閉されました。
赦免後は明治4年伊豆松崎に行き、郷学謹申学舎塾長を務めました。


■斎藤一
齋藤一は幕臣の山口祐助の次男として生まれました。新選組結成後は、その腕を買われて三番隊の組長となります。会津戦争が敗戦間近になると、『会津を見捨てるのは正義ではない』と、一部の同士とともに会津に残りました。
その後、藤田五郎と改名し、会津藩士の娘時尾(ときお)と結婚します。
後半生を会津人として生き、市内七日町阿弥陀寺に眠っています。


■白虎士中二番隊
戊辰戦争で新政府軍の仇敵となった会津藩は、本来は予備兵力であった白虎隊を、各防衛拠点へと投入しますが、最精鋭とされた士中隊も、奮戦空しく撤退を余儀なくされました。
負傷者を抱えながら、郊外の飯盛山へと落ち延びた士中二番隊でしたが、そこから見る若松城周辺の火災を目にし、落城したと誤認して次々と自刃を決行したということです。

※キャラクター使用に関するお問い合わせは会津若松商工会議所までご連絡ください。
住所:〒965-0816 福島県会津若松市南千石町6-5
電話番号:0242-27-1212
FAX番号:0242-27-1207
URL:http://www.aizu-cci.or.jp

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